2020年3月23日
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伊豆の国市で見つかった三島競馬場のポスター。戦争の影響をうかがわせる文言も記されている=伊豆の国市内で
一九三七~五五年まで長泉町にあった「三島競馬場」のポスターが、伊豆の国市の住宅で見つかった。太平洋戦争中の四二年秋のもので、文言からは戦時色もうかがえる。保管するNPO法人「伊豆学研究会」(同市)の橋本敬之理事長(67)は「競馬場のポスターを見たのは初めて。保存状態が良く、当時の世相も分かる貴重な資料」と価値を語る。 (杉原雄介)
「三島鍛錬馬競走」と銘打たれたポスターはB2判の良質な紙にカラー印刷されており、折れ目は付いているが傷はほとんどない。入場料は五十銭(〇・五円)、「学生、生徒、未成年者」は二十二銭(〇・二二円)と記されている。ちなみに、現在の競馬の入場料は一般で百~二百円が主となっている。
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文中には「軍用保護馬」「食糧携帯」といった言葉も。橋本さんは「競馬が軍用馬育成の役割を担っていたことが分かる。観客に食糧持参を求めるのは、戦時中の食糧不足が影響しているのでは」と推測する。
ポスターは、伊豆の国市南條の石井美保子さん(62)宅で見つかった。石井さんの母の嫁入り道具である、たんすの引き出しの中敷きに使われていたという。石井さんは「三島競馬場の存在は知らなかったので驚いた。母は三島の旅館の娘だったから、ポスターはもともと旅館に貼られていたのかも」と語る。
橋本さんは、ポスターを三島市郷土資料館などに寄贈することを考えている。「ポスターを広く公開し、各家庭で眠っている三島競馬場の写真や資料が出てくるきっかけにしたい」と期待を膨らませる。
◆鍛錬馬育成で37年誕生、55年廃止
三島市の郷土史家関守敏さん(71)によると、三島競馬場は「戦時の鍛錬馬の育成」を名目に、伊豆の国市古奈にあった長岡競馬場を長泉町竹原に移転する形で一九三七年に誕生した。
コースは幅二十五メートル、一周千二百メートル。階段式の大きな観覧席や食堂などを設けており、多くの観客でにぎわったという。
だが四一年に太平洋戦争が始まると、四三年後半には戦局悪化により競馬の開催が不可能に。その後はサツマイモ栽培や軍の貯蔵庫として使われたが、四五年七月の沼津大空襲で観覧席が全焼する被害を受けた。
戦後は四七年に再建するも、業績がふるわず五五年に廃止。跡地は私立知徳高校の敷地などになっている。
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1940年発行の「観光の三島」に掲載されていた三島競馬場の写真(三島市郷土資料館提供)
その頃はまだ余裕あったんだな。
草
ペリーさん乙
こういうところからよく歴史的なものが見つかるんだよな
あと、ふすまの中に使う紙からもよく見つかるね
戦時中は右左のイメージあったから過渡期なんかな
しかし当時入れ替わりの時期は慣れるまで大変だったろうなぁ
対米戦争が始まる直前くらいから左書きへの推奨が政府通達ではじまっていたので戦時中は過渡期だった。
でも敵性言語に合わせるというのは反対という主義主張が政府内でもあったので公官庁の文章でもバラバラだった。
それが戦後の進駐軍による軍政下、新聞なんかが率先して左書きに切り替わっていった。
トリビアサンクス。
戦争直前に左書き推進は初めて知った。
デフォルメや
ギャロップだからこれで良いのでは?
一時的に競馬をやったこともあった。
連合会より聯合會の方がカッコいい
馬体が馬體だったらもっと良かったんだが
長泉町にあったのを三島競馬場といってた
沼津競馬場は有名で跡地は少年自然家